埼玉県松伏町大川戸の路傍(旧古利根川堤防上)にある三基の馬頭観音塔を調べた。調査した石仏を写真とともにお伝えする。場所は光厳寺(こうごんじ)本堂の西150メートルのところにある。
三基の馬頭観音塔
調査したのは 2024年10月20日。舗装された土手道(旧古利根川堤防)の脇に、ちょっと小高くなっている畑地のような一画があり、そこに三基の馬頭観音塔が並んでいる。
- 馬頭観音像塔|文化3年
- 馬頭観音像塔|文化元年
- 馬頭観音文字塔|文政3年
馬頭観音とは
最初に、馬頭観音(ばとうかんのん)について簡単に触れておく。
馬頭観音とは、「馬の頭をもつ観音」の意。もともとは仏教的に信仰されていたが、江戸時代の中期以降になると、運送馬を使う運送業者や農耕馬を使う農民の間で信仰されるようになった。農村部では死んだ馬の供養塔としても建てられている。
以上を踏まえ、三基の石仏を順番に見ていく。
馬頭観音像塔|文化3年
まずは一基目。向かって左端は、馬頭観音像塔。江戸後期・文化3年(1806)12月19日造塔。石塔型式は駒型。
中央に馬頭観音立像が浮彫されている。
顔と頭の部分が破損してしまっているが、馬口印(※1)を結んでいることから、馬頭観音であることがわかる。
※1 馬口印(まこうん/ばこういん)とは、人差し指と薬指を伸ばして中指を折る馬頭観音特有の印相。
脇銘
右の脇銘は「文化三寅十二月九日」。左の脇銘は「大川戸村」「施主平左衛□」(施主 平左衛門か)
馬頭観音像塔|文化元年
続いて二基目。中央は、馬頭観音像塔。江戸後期・文化元年(1804)造塔。石塔の最頂部がすり減っているので型式は判断できないが、駒型のように見える。
石塔の上部に馬頭観音座像が浮き彫りされている。
銘
石塔の下部には銘が刻まれている。
中央に「馬頭□□□」(馬頭観世音もしくは馬頭観音か)
右脇に「文化元子」(文化元年子年)と刻まれている。左脇は欠けているので銘は読みとれないが、「○月吉日」のように「造立月日」が刻まれていたか、もしくは「施主名」が刻まれていたと思われる。
馬頭観音文字塔|文化3年
三基目。向かって右端は、馬頭観音文字塔。江戸後期・文政3年(1820)3月造塔。石塔型式は駒型。
中央に「馬頭観世音」と刻まれている。
脇銘
右の脇銘は「文政三辰年」。左の脇銘は「三月吉日」「横川□□」とある。「横川□□」は施主銘と思われる。
今でも供養されている
三基の馬頭観音塔の前には、塩ビ管と竹の花立てがあるので、今でも供養されていることがうかがえる。この場所は「辻」にあたるので、もしかしたらここはかつて馬捨て場だったのかもしれない。
江戸時代、農村地帯にとって、馬や牛は重要な労働力であり、家族同様、大切にされた。
八大龍王文字塔
三基の馬頭観音塔から15メートルほど離れたところに八大龍王文字塔が建っている(上の写真の黄色い楕円印)。この八大龍王文字塔については別記事で解説している。
埼玉県松伏町大川戸の中川堤防上と旧古利根川堤防上にある八大龍王文字塔について調べた。二基とも江戸末期・安政5年(1858)2月造塔で、銘の書体や刻み方はまったく同じ。
場所
旧古利根川堤防上にある馬頭観音塔の場所は、埼玉県北葛飾郡松伏町大川戸・光厳寺(こうごんじ)本堂の西150メートル。上の写真の左端に見えるのが光厳寺本堂。
光厳寺の山門前の小道を古利根川に向かって直進。土手道(旧古利根川堤防)に出たら右へ。200メートルほど進んだ先の十字路手前にある。大きな松が目印( 地図 )
参考文献
本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。
『松伏町史 文化財編(石造物・絵馬・指定文化財)』松伏町教育委員会(令和6年3月22日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)
外山晴彦『サライ』編集部編『野仏の見方』小学館(2003年6月10日発行)